変化/不変・・・米山(赤羽)

二十数年前に出会って以来、間違いなく不動の我が最愛のもつ焼き屋で、一時は毎週のように通い(赤羽に不純な別宅があったからであるwww)、その後も折に触れて「価値のわかる」人だけを誘って訪れていた米山。

しかし、数年前から焼き場担当のお母さんが体調を崩して店頭に立たなくなってしまい、私にとってお母さんのいない米山は最早米山ではないような、上手く馴染めない感覚があって、すっかり足が遠退いていた。

酒朋のDDVセンパイ(仮名)と夕方から飲もうという話になったある日、幾つかの候補から我々は遂に米山を選ぶことにした。

6時20分頃マスターが暖簾を出して開店。
と同時にカウンターは埋まり、外には簡易テーブルが二つ並んだ。
数年振りとは思えないほど、馴染みの光景であり、この瞬間に私の中で時の概念が失われた。

卓上にはカセットコンロが予めセットされており、事前に聞いていた通り、セルフ焼きスタイルである。

ビールで乾杯し、一瓶ずつ空け、ホッピーに切り替えた頃に肉が提供され始めた。

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チレ。
懐かしい、他所のチレとは一線を画す色と艶と大胆なカット、やはりこれは米山ならではである。

他にナンコツとレバーを頼んだが、いずれも米山でしか味わえない絶品であった。

また、セルフ焼きの最大のメリットは、焼き加減を自分で調整出来ることにあることにも気が付いた。

当局の指導によりメニューから消えてしまったかつての米山の名物、半焼きを再現出来...いや、やめておこう、なんでもありません。

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全く変わらないメニューもある。
その筆頭がこの澄んだ煮込みだ。
なんて旨いのだろう?

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胡椒の効いたマカロニサラダも、酒飲みのツボを突きまくっていて素敵だ。

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肉肉しい水餃子も相変わらず。

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そして必殺・必食のつくね。
これだけはセルフで焼くわけにいかず、他の全ての料理の提供を終えた後にマスターが自ら焼いてくれるのである。
ナンコツの食感、胡椒の効いたスパイシーな味、そして不思議と尾を引く甘さ。
代替不能、唯一無二、これぞ米山である。

私は自身の感傷に捕らわれて足が遠退いていたことを恥じた。
いかに串焼きがセルフ焼きに変わったとしても、米山は米山でしかあり得ないのだ。
つまりそれは矜持と本質の問題だ。

私が尊敬するある医師/思想家の方は、
「お金は自らの支持を表明する投票用紙と思って使いなさい」と述べられていた。
金はそれ自体が目的と化すと空虚で恐ろしいものだが、衣食住を充たした後の残りの金は投票用紙であると思えば、こんなに健全なものはない。
効率が最も重視される貨幣経済の中で、この定義は経済の愛の側面であるとも言える。

私の潤沢とはいえない投票用紙は、米山のような健全な店に対する支持表明の意思として使うべきなのだ。

米山の創造性に深く感じ入った我々は、共に天命を知る歳を迎えたというのに、若気の至りとしか言い様の無い無軌道さで、驚くべきプランを立案してしまったのだが、この話はまた後日。

そしてこの翌日、私は私同様に米山から足が遠退いたいたサマーな後輩(仮名)を米山に誘うことにした。
よって再訪の日は既に決まっている。