oracle night/Paul Auster

昨年の11月上旬、さる企画の打合せで某医師/音楽家の方と夕食を共にしていた時のこと、テーマは音楽を離れ表現全体に広がっていった。
「表現」については私も常日頃から考えていることもあり、非常に興味深く話を拝聴していた。
この方は多方面の表現/芸術に精通しておられ(のみならず哲学と仏教にも)、その知識の広さと深さ、洞察力の鋭さは舌を巻くしかなく、いつも良い刺激を頂けるのだが、その日は小説という個人的にとても馴染みのある表現形態に初めてテーマが及んだ。
その方いわく、「結局小説というものを掘り下げていくと、ポール・オースターに行き着く」とのこと。
私は名前こそ知れど読んだことのない作家だったので、その時は興味を抱きつつも、いつか読んでみようかな的に軽く聞き流していたのだが...。

確かその食事会があった週末のこと、思うところあって本の断捨離を断行した。
ここ数年、旅行中に読んだ本は原則的に旅先に置いてくることを常としているし、逆にその直前のポルトガル旅行で読み返そうと思った本は家から見つからずにブックオフで買い直し、こんなことなら自宅に積み上がった本の山は整理した方がいいじゃないかとふと思ったのだ。

作家に敬意を表するなら、ブックオフには売らずに棄てるべきであろう。
私は一冊ずつ確認し、絶対に読み返すことの無いだろう本、恐らく読み返すことは無いだろう本を、思い出も思い入れも排除して無慈悲に機械的段ボール箱へ投棄していった。
読み返す可能性が低いものの入手困難な本は原則的に残した。
3箱の段ボールが埋まった頃、それは唐突に見つかった。

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経年劣化著しくすっかり変色した、ポール・オースター「オラクル・ナイト」のペーパーバックである。

何故こんな本が?
暫く考えても全く心当たりが無かったのだが、後にようやく思い出した。
今を遡ること十数年前に、赤坂の本屋のワゴンセールで何冊かまとめ買いしたペーパーバックの名残だということを。

運命的なものを感じて読み始めると、やはりそれは本に呼ばれたとしか思えない特別な読書体験となった。

この物語の鍵となっていることのひとつは、ポルトガルだ。
そして、私はこの本を読み始める僅か2週間前に、初めてのポルトガル旅行から帰ったばかりなのであった。

物語の空気感は、村上春樹ねじまき鳥クロニクルにとても似ていた。
もしくは、夏目漱石の門を彷彿させた。
それらはいずれも私がポルトガルで読んだ本だった。

「オラクル・ナイト」とは、小説内小説内小説のタイトルだ。
主人公の小説家がポルトガル産のノートに書いていた名もなき小説内小説は、妻の元から失踪した小説内小説の主人公(編集者)の絶体絶命のシーンで行き詰まって放置され、その小説内小説に登場するオラクル・ナイトという小説は、小説内小説の主人公である編集者の元に持ち込まれた経緯と背景、ほんのイントロダクションが出てくるだけで後は放置されていた。

この不思議な小説世界は翌月のミャンマー旅行に引き継がれることとなる。

つまり、ミャンマー旅行の一冊目に読んだ佐藤正午「5」は小説内小説が出てくる小説家を主人公とした物語であり、2冊目に読んだ佐藤正午の「ジャンプ」は失踪した恋人を探す物語だったのだ。
何なんだ、この連関と連環は?

虚構を現実化するのが小説で、現実を虚構化するのがノンフィクションとは誰の言葉だったか?

しかしここに私見を挟めば、現実化された虚構の中に、何故だか現実の私が含まれてしまうのが優れた小説の恐ろしさ、ということになる。

どこを掘っても掘り続ければマントル層に必ず辿り着くように、深い次元まで掘られた物語は不可解な普遍性を帯びるのかもしれない。

しかし参ったな。
読みたい本がまた増えた。

そんな訳で私は旅を続けなくてはならない。

ちなみに読了したこのペーパーバックは手元に置いておくことはせず、年末年始にニューヨークを旅した後輩に押し付けた。
何故ならばこの作品の舞台はニューヨーク、そこに新たな連関と連環を見出だした気がしたのだが、さてどうなることだろうか?