旅読書、ポルトガル編。

私の中で「旅に出たい」という動機の30%程を担っているのが、心ゆくまで読書を楽しみたいという欲求である。

「暇潰しとしての読書」は16歳からの私の最大の趣味であったのだが、最早潰すような暇など持ち得ない残り時間の少ない今の私に、なかなか長時間読書に没頭する時間を捻出することは難しく、長編小説はついつい避けがちなのである。

しかし旅、ことに一人旅、特に海外一人旅では、移動時間の長さもあって私は失われた趣味を取り戻すことが出来るのである。

今回のテーマは「三部作」と「読み返し」だ。

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ひとつ目はこちら、村上春樹著「ねじまき鳥クロニクル」。
少なくとも単行本発売時と文庫本発売時の二度は通して読んでいる。
残酷描写、息苦しくなるような井戸の底の閉塞感(私は閉所恐怖症の傾向があり、そのせいもあって映画館や飛行機が苦手だ)、読んでいて苦しくて、楽しめた記憶がない。
振り返ってみればこの作品を境に村上春樹作品と疎遠になったような気がする。ある種のターニングポイント的な作品だ。
第一部と第二部を段ボールの本の山から見つけられず、第三部以外はブックオフで調達。

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手元にあった第三部の奥付は、平成九年発行の初版本。なんと21年振りではないですか。

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もうひとつは夏目漱石の三部作。
こちらは高校時代の課題図書で読んだので、三十数年振りであります。

結果的にはどちらもとても面白かった。
こんなに面白かったのか!と思うほどに面白く、また多くの発見に満ちていた。

違う意味で面白いのは、リアルタイムで読んでいた村上春樹の小説からより強い風化と時代遅れを感じ、漱石からはむしろ猛烈な普遍性を感じた。
これは私の生きた同時代が既に過去のものとなった個人的距離感も関係しているだろう。
一方で「同時代性」という作者と読者の暗黙の了解的共通性が失われて尚、瑞々しい新鮮さを失わない小説とは、「本質」を抽出することに成功した極めて普遍的文学であると言える。
即ち、それこそが「時の洗礼」というものだろう。

あと、これは間違いなく花村萬月の影響なのだが、「ねじまき鳥」は比喩がやたらと鬱陶しく感じた。
小説によらず、私は音楽でも映画でも一人称の煩い表現は好まない。
三段論法的に言うならば比喩も一人称の発露であり、即ち比喩は一人称が煩い故にダサくてカッコ悪いということになる。
そして哀しいことに私の文章にも、比喩は少なくないんですけどね。

しかし、時系列や細かいエピソードが記憶の中で滅茶苦茶になっていたが、こうして整理しながら読んでいると大変に素晴らしい小説だと思わざるを得ない。純粋に楽しかったな。

一方、漱石は圧巻の一言でしたね。
三四郎」はガツンとくる。
「それから」はジワジワくる。
「門」に至っては、レディオヘッドトム・ヨークが「KID A」というアルバム制作時に獲得した「川の流れをただじっと見つめるような」静けさと諦念が全編を貫いており、読み終えて暫く経ってからジヮっ、という細やかかつ確かな読後感が襲ってくる。
いったいぜんたい私の母校の国語教師は何を考えて高校一年生の課題図書にこんな小説を選んだのだろうか?
高校生に理解するのはいくらなんでも難しいだろう?
そりゃ本嫌いが増える訳だよ。

これらの本は旅の思い出と共にポルトガルに置いてきた。

次の旅のお供の選定もすでに終了している。

2018年、私はもう一度旅に出る予定だ。