旅読書・・・北の海(井上靖)

これは先日のジョージア旅行ではなく、GWのベトナム旅行に持っていき、帰りの便を待つハノイノイバイ空港のパブで読了したもの。

更に元をただせば3月にバンド合宿で北海道に1泊旅行した時に読んで大感動した増田俊也「七帝柔道記」にしばしばこの「北の海」が登場するのでどうしても読みたくなったのだが、ジュンク堂書店池袋本店で探すと、「北の海」は「しろばんば」、「夏草冬濤」から続く自伝小説三部作の終結部に相当することを知り、全て纏めて購入、ベトナムに持ち込んだ次第である。

大正時代を舞台にした、今から60年も前に書かれた今日的とは言えない小説だが、釣りたてのアジの刺身のような瑞々しい鮮度とエッジがあった。
最高の読書体験だった。

敬愛する作家・花村萬月も何処かのインタビューでこの作品を褒めていて、確か「ヤマもオチもないが文章の力だけで読ませる。今でも時折読み返す」というような事を語っていたように記憶している。
全くもって同感である。
Amazonレビューには無駄が多い、なんて書いているものもあったけど、そもそも効率とは無縁にある小説という表現形体が内包するムダに(実際は無駄なんかでは決してないのだが)倦んでいるようでは、文学作品を読む資格(というか資質というか)なんてないと私は思う。
確かに金沢の海岸で財布を落とし、気が付いてから探しに行き、幸い見つけることが出来、改めて飯を食いに行くようなシーンはストーリー全体からしたら無駄だろう。
だけど読ませる。面白い。「ヤマもオチもないが文章の力だけで読ませる」とは正にこういうことだ。

最後は親元の台北に向かうところで終わるこの小説、しかし沼津駅の少々感動的な別れのシーンで終わるでもなく、新天地・台北の地を踏むでもなく、神戸に停泊後に再び船に乗り(ちなみに神戸停泊中のシーンまるごとが大いなる無駄で最高である)、海が荒れてきて船が大きく揺れるシーンで唐突に物語が終わる。
この余韻、読後感、痺れる。

時の洗礼を受けても鮮度を失わない文章とは、どうしたら書けるのだろう。
件の花村萬月氏は何かの著作でその理由のひとつに「陳腐な比喩を使わないこと」を挙げていた。
確かにね。陳腐な比喩は作者の自己満足も見栄隠れする。「私」がうるさい文章とは、大抵カッコ悪いものだ。
あとは硬質な筆致っていうんですかな、この形容も野暮だけど、カッコいい文章に触れること自体、やはり気持ちが良いものである。

イメージ 1


ちなみにハノイからの帰りの飛行機で、件の花村萬月の「信長私記」を読み始めた。
「暴力」と「漢(おとこ)」を書かせると抜きん出ている同氏が描く信長、大いに期待した分大いに肩透かしで読了までに4週間もかかってしまった。
「私」が煩しかったんですよ、珍しく。
芸人が自らのネタを解説するかのようなあとがきも、まったくもって頂けなかったな。
芸人が自らのネタを解説することはご法度であり、同様にあとがきで読み方を規定というか指定というか要望というか、とにかく作者としてはこう読んで欲しいと書いているのは言い訳じみていて少なくとも私には不要だった。
言われるまでもない。

この作品に登場する松永久秀が信長以上に魅力的だったので、引き続き花村萬月による松永久秀の物語「弾正星」を読んだら割と面白かった。
しかし私は同氏の歴史小説よりも、時代物の方が遥かに好きである。嗚呼、「私の庭」よ、よろづ情ノ字薬種控」よ。

と、ここまで書いてきた私の文章こそが猛烈にダサいですね。

お後が宜しいようで。