旅読書・・・「しろばんば」井上靖

私が旅に出る動機の30%程を担っているのが「心行くまで読書を楽しみたい」という欲求である。

積ん読の山は将来への希望として常にある程度の高さを維持してはいるが、折角海外一人旅に出掛けるなら、普段の通勤読書では満喫することが難しい、なるべく長い小説が望ましい。

さて、3月末にバンド仲間と北海道旅行に出掛けた際に持参した小説は増田俊也の「七帝柔道記」であり、それはそれは強烈な読書となったのだが、その中に度々井上靖の「北の海」が登場したのであった。
「北の海」に出てくる高専柔道こそが、今も連綿と続く七帝柔道の原型に他ならないのだ。
私は「北の海」を読んだことがないが、敬愛する作家の花村萬月がさるインタビューで影響を受けた小説のひとつに挙げていて、そう言えばかねてより気になっていたことを思い出した。
早速ジュンク堂に買いに行くと、この「北の海」は「しろばんば」、「夏草冬濤」(上下巻)から続く長大な自伝小説の終結部に当たる上下巻2冊組ということを知り、これはGWの旅行用に最適だということで5冊纏めて購入したのである。

さて、私は実は中学時代に「しろばんば」を読んだことがある。
その時に抱いた感想は、山本有三の「路傍の石」のパクリみたいだな、という身も蓋もないものであった。
細部は何も覚えていないが、子供心に全く響かなかった事だけは覚えている。
という訳で特に期待もせず、行きの羽田発ハノイ行きの全日空機の中で読み始めたのだが...。

直ぐ様のめり込んだ。夢中になった。素晴らしい小説ではないか。
大正時代を舞台にした、今から60年近く前に書かれた、今日的とは言えない小説だが、昔々に子供であった経験のある人間なら誰もが心を動かされるであろう普遍的な感動があった。
かつて言語化出来ないこういう感情が確かに自分の中にあった。その存在すら忘れていた。その感情を言語でなく小説という形式で提示され、呼び起こされた。
私は小学5年生の頃、クラスメイトの吉田くん(本名)が教室で唐突に泣き出したエピソードを、恐らく今まで一度も思い出したことのないであろう記憶をいきなり呼び覚まされた。そして何故吉田くんがあの時泣いたのか、なんとなく理解できる気にまでなったのであった。

昭和の終わり頃、村上春樹が「ノルウェイの森」という作品の中で、ハツミさんという登場人物とその死を、失われた青春期(アドレセンス)の象徴として描いていたが、「しろばんば」では象徴としてではなく、幼年期・少年期そのものが真空パックして冷凍保存されていた。
それを読むことは、追想や追憶としての少年期の記憶の再生ではなく、少年期そのものを再び生きることを余儀無くされるかのようだった。

泣いたり笑ったり怒ったり、フィジカルなリアクションは感情移入によってもたらされたのではなく、私の中に確かにあった少年期の残滓が呼応しているかのようだった。

単調な日常が描かれるだけの内容にたいしたドラマはなく、三人称で描かれる淡々とした筆致は一切の感情を排除しているかのようだ。
それなのにこんなにも心が動かされてしまうのは、正に小説の力、胆力だろう。

私はこの旅でこの先私を待ち受けるものが俄然楽しみになってきたのであった。

イメージ 1

全くの余談だが、この小説の終盤に唐突に「路傍の石」という表現が出て来て私は苦笑を禁じ得なかった。
やれやれ。
中学時代に私がこの小説に対して抱いた感想さえ、この小説には見透かされていたのだ。