私の庭(花村萬月)

私が旅に出る理由/動機の30%程度(当社比)を担っているのが、長編小説を心ゆくまで楽しみたい、という欲求である。

暇と自分自身をもて余していた学生時代には本を読む時間がいくらでもあったのだが、フルタイムの仕事を持ち、やりたいことややるべきことも沢山ある現在、日常生活の中ではなかなか読書に没頭する時間を創出することが難しく、せいぜい通勤途中に読む程度、すると電車の都合で読書が寸断されるのはやむを得ないところであり、超長編小説にはなかなか触手が伸びないのである。

そんな私が読書の悦びを取り戻したきっかけが旅、特に海外一人旅であった。

往復の飛行機は勿論、ホテルで、公園で、観光の合間に、或いは観光を中断してまで読書に没頭できる環境は、我が日常においては一人旅でしかあり得ない。

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「私の庭」、全六巻、約3000ページに及ぶこの作品に没頭する為には一人旅が必要であり、然るべき時が来るまで積ん読していたわけだが、年末年始のベトナム旅行で遂に機が熟したと判断した私はバックパックに6冊の本を詰め込んだ。

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残念ながら5泊6日の旅程ではこの長い物語を読了するには至らず、通算五巻目にあたる「北海無頼篇」上巻の半分を終えたところで羽田空港に着陸したのであった。

それでも、やはりこの旅で読むべき小説だったように思う。
途中からキーワードのように登場する「死の鎖」「生の鎖」という命の連携と連関を描くこの作品を味わうにベトナム程最適な場所はないように思えるし、また特別な読書体験をしている最中にしばしば起こる不思議な符合も幾度か遭遇し、作品と自分の魂がシンクロしたのを感じずにはいられなかった。

なによりこのテーマを描ききるためにはこれだけの長さが必要だったのだと納得せざるを得ないほどに無駄も中弛みも一切無い硬質な筆致。痺れたの一言である。
近年の個人的な旅の読書体験では、期待が大きかった分激しく幻滅した山本周五郎の「長い坂」の対極にあたる。

小説を体験することとは著者と読者との一対一の孤独な魂の交換であり、交歓でもある。
だから私には孤独な状況で読む方がより深く魂に沁みるような気がするのだ。
まぁつまらないものは何時何処で読んでもつまらないものだし、逆もまた然りなのだけど。

ちなみにこの点が私がハリウッド映画を毛嫌いする要因のひとつでもあるのだ。
ある事情があり、かって「アヴェンジャーズ」という映画を観た時に、その長い長いエンドロールとつまらないオチに反吐が出そうなほどの嫌悪感を覚えた。
これは作品である以前に産業でありシステムじゃないか。

作品とはシステムとは対極にあるものだと私は信じている。
システムに堕した作品に付き合っている程、私の人生の残り時間に余裕はないのだ。

積ん読の山はまだ控えている。

私の頭の中では次の旅の計画が始まっている。