別れ

19本のタチウオはとても食べ切れないのでお裾分けの為に実家へ。

一週間程前に倒れた実家の猫さんは、最早意識がなく、呼んでも撫でてもさすっても何の反応も無かった。

呼吸もとても静かで幽かで、注意して見ないと生きているかどうかも分からないほどだ。

もしかしたらタチウオを少しでも食べてくれるかもしれないという私の淡い期待はあっさりと潰えた。

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その2日後、私が神楽坂の飲み屋にて気が重いだけの話し合いを始める直前、母親から猫さんが20分前に旅立ったとのメールを受信した。享年20歳。

私はこんな下らない飲みなど放り出し、一刻も早く実家に戻りたかった。
しかしこの糞みたいな話し合いの場を設けたのは誰あろうこの私なのであった。

そもそもが無駄だったのだ。
自分の尺度でしか世界を見ることが出来ない人間と、対話など成立するわけがない。
自分が正しいと思っていることは普遍的な真理だと信じて疑わないような人間とは、表層レベルで浅く付き合っていればいいのだ。
何故なら対話とはお互いに変化が生じることを前提としなければ成り立たない行為だからである。

激しい怒りを感じたが、怒ることが既に徒労だ。
そしてそんな時に猫さんは静かに死んでいる。

解散は23時を過ぎ、最早私は実家には帰らなかった。

翌日、荼毘にふしたと母親から連絡をもらった。
私は母親に感謝と労いのメールを送った。

私が釣ってくる魚を心待ちにしてくれていた猫さんの存在は、私が釣りを愛する要素の幾ばくかを担っていた。

今後私は釣りの意味が何%か失われた世界で、釣りを続けなければいけない。