たびを

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先日の台湾旅行の際、行きの飛行機で読み始め、帰りの飛行機で読み終えたのが、この花村萬月著「たびを」である。

ハードカバー、活字は二段組で1000頁というこの重くて分厚い小説は、バックパッカーには大変な重荷ではあったけど、結果的にはこの旅をより豊かにしてくれた、この旅で読むべき本であった。

生憎と主人公の虹児君の倍以上生きている私は、虹児君と一緒に旅をしていても彼のような人間的成長を得ることは出来なかった。

しかしバックパックを担いで一人異国を放浪する私の心と虹児君の心はあちらこちらでシンクロしたのである。

確か中島らもの言葉だったと思うのだが、「小説の醍醐味とは他人の経験を盗むこと」というのがある。所謂「100冊の本を読めば101通りの人生を生きることができる」というヤツだ。

私は深く同意するが、一方で「経験を盗むに値しない」小説が多いこともまた事実である。

小説が「経験を盗むもの」足り得る為には、物語が「既存の常識」という0人称複数の論理から外れ作者によって再構築された倫理による世界にあり、文体が一人称だろうが三人称だろうが作者の揺るぎ無い視点がありつつも、小説自体が作者を超越して作者にも制御不能なものになっている必要があると私は考えている。

「伏線」だとか「オチ」というものは詰まるところ技術であり、小説の本質とは関係がない。
ストーリー・テリングと技巧で成立している小説は、私には小説というよりも脚本と呼んだ方がしっくりくる。

音楽にも似たようなところがありますね。
確かな技術に裏打ちされた演奏は勿論心を打つものだけれど、表現の本質を疎かにして「超絶技巧」に走ったものには個人的にはあまり関心がもてない。

ところでこの小説、勿論家で読んだり通勤途中に読んでも大いに楽しめたに違いないが、一人異国を放浪しながら読むほどの感動は得られなかっただろうとも思う。

長編小説を読むに最も適した環境とは、日常からかけはなれた場所である。

更に小説という表現が作者と読者の一対一の魂の交換と交歓であるならば、読者も孤独な状況であることが望ましい。

長編小説を心ゆくまで楽しむことは、サラリーマンにとってはかなりの贅沢だと言えよう。

私が折に触れて旅に出る目的の3割は、読書を楽しむためなのだ。

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