不自由な読書

読書は好きだが活字中毒ではない。

悲惨かつ滑稽な「サラリーマン」を生業とし、釣りとバンド活動を趣味とする日常を送っていると、“読書に没頭する”という贅沢な時間を創出することは極めて困難だ。

ところで「良い小説」とは最高の表現形態である。
芸術的な表現とは本質的に創作者が完全に独りで創り上げるべきものであり、それを受け止める鑑賞者側も独りで味わうべきものである。

「孤独な魂同士の交流」が成立して初めて芸術は芸術足り得る。
「良い小説」は激しく、孤独で、崇高であり、読書体験を通じて自分の内部に変化をもたらしかねない。

通勤電車で出退勤の合間に細切れで本を読んだところで、なかなか孤独な魂同士の交流は成立せず、すると苛々が募ってきて活字を追うこと自体を放棄したくなることもしばしばだ。

ところが最近気が付いたのは、海外一人旅は長編小説を読破するのにとても適した環境だということだ。

出張や旅行の移動時間は読書に適した時間ではあるが、言葉もろくに通じない海外一人旅においては観光に費やす時間以外は全てが読書に適した時間であるといえる。

よって私は海外一人旅の間だけは紛れもなく活字中毒を患うのだ。

さて、今年のGWのバリ島旅行で私は上・中・下巻からなる一大スペクタクル小説、花村萬月の「ワルツ」を読むことをとても楽しみにしていた。

簡単に日本語の書籍が入手出来ない海外旅行に持っていく本がつまらないものであったら旅の印象そのものまでもが悪くなってしまいそうなので、旅のお供選びはいつだって真剣だ。
私の旅は本選びから始まると言っても過言ではない。
そして花村の長編は(ガキの頃は苦手だったけど)概ね私を裏切らない。

ジャカルタへ向かうANA機の中で、私は期待に胸を膨らませながらカバンの中の本を取り出した。

「!!!」

おお、神よ、上巻が入っているはずのカバンには、どうにも馴染めずに数日前に読むことを放棄したばかりの本が入っており、「ワルツ」の上巻は何処にもなかった。

私はパニックに陥りながら頭上の荷物入れからバックパックを下ろし、中を漁りまくった。

そこには「ワルツ」の中巻と下巻は入っていたものの、上巻はどこにも見当たらなかった。


作者への冒涜ではあるが私に選択肢はなく、止むなく中巻から読み始めた。
しかし連続ドラマを途中から見始めるが如く、想像力を発揮して物語の整合性を維持しながら読み進めると、やはりそれは最高の小説でしかなかった。

最終日に下巻まで読み終えてしまったが、帰りの飛行機は一睡もしない状態で乗り込んだので羽田まで熟睡すれば本を読む必要はないのであった。

しかし飛行機嫌いの私は飛行機では決して熟睡出来ない。

よって予備で持ち込んでいた椎名誠の「そらをみてますないてます」を読み始めた。
面白かった。が、長い小説なので半分弱読み進めたところで羽田に到着した。

帰国後に私は二者択一を迫られた。
結局読みかけの「そらをみてますないてます」を中断し、「ワルツ」の上巻を読み始めた。

楽しく読んだものの上巻を読まずに中下巻を読んだことに起因する疑問も全て氷解し、私は大いに感動した。

そして途中で投げ出していた「そらをみてますないてます」の続きを読み、先週ようやく読了した。

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並行して物事を処理しなければならないこともある。
粛々と作業を進めていたのに、緊急性の高い案件が横入りしてくることもある。
進行中のプロジェクトに途中から参加しなくてはならないこともある。

私としては何とも不自由で作者への冒涜でもあった読書体験ではあったが、こんな変則プレイでも充分に感動し、読書の喜びを享受出来た。
リセット完了である。

さて、私は決して浪費家ではないが、かと言って倹約家でもない。
しかし本を買うことに関してだけは一切の我慢をしないことにしている。

この不自由な読書により小説愛モードが高まり、遂に積ん読の山が20冊を超えてしまった。

うん。
これは次の旅の準備が整ったということであろう。