依存・・・天下一品神楽坂店

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心ない人は私のことを“アル中”と呼ぶが、それは誤りなのである。

中毒ではなく依存。

これが私とアルコールとの関係である。
もしかしたら私と釣りとの関係にも当て嵌まるかもしれない。

強弱・程度の差こそあれ、原則的に人は弱い生き物である。
弱いが故に何かに依存して生きている人間が殆どであり、何にも依存していないと思っている人の多くは自分が依存している対象を自覚していないだけなのだという気がする。

異性に対する依存、ギャンブルに対する依存、自らの果たせなかった夢を代替的に果たすべく子供に対する依存・・・etc。
色んな依存の形があるが、個人的に今最も気になるのは会社もしくは仕事に対する依存である。

会社組織という集団幻想は、俯瞰して見ればかなり滑稽さを伴うものである。そんな中にあり組織(システム)の維持・堅牢化のみに邁進するタイプの依存(社畜型)と、組織(システム)に無条件かつ忠実に従い上位者のご機嫌を取ることでより上位を目指すタイプの依存(家畜型)が最も分かり易いが、自分の仕事量を物理的に増やして自らを追い込む形での仕事に対する依存の仕方(自己陶酔型)があることに最近気が付いた。

会社というものは原則的に営利追求集団である。従って個々人に任命されているミッションも本質的には売上と利益の増大という使命を帯びているはずである。
しかし自己陶酔型依存者は往々にして作業自体が目的化しており、作業効率やその作業が売上や利益にどう貢献するかという根本の概念が欠落しているように思える。
この自己陶酔型のタチが悪いのは物理的には忙しいから本質を見落としているとか考えてる余裕が無くなり、依存自体に特に気が付きにくい点だ。(勿論依存とは無関係に否応なく忙しい人も大勢いる。ただ、この線引きは明確にあると思う。)

何故このように考えるのかと言えば、それは社畜型、家畜型、自己陶酔型、いずれの依存形態も自分で体験してきているからだ。
しかも自分が依存している時には当然自分が依存している事に全く気が付いていなかった。今にして思えばこれが最も恐ろしい。

少なくとも今の自分は生活の糧を得る場として会社に依存しているのかもしれないが、精神的には全く依存していない。
だからと言って会社が嫌いな訳でもないし、(嫌なことも多いけど)仕事が嫌いな訳でもない。

いくらその仕事に依存していようと、サラリーマンであれば自分の意思に反して全く異なる職種に配置転換になることもある。
そしていくらその会社に依存していようと、サラリーマンであれば一定の時が来たら会社を去らねばならない。

時が来て、失ってみて初めて依存に気が付いたとしたら?
それはかなりのダメージになることは必至である。

勿論依存自体は善でもなければ悪でも無い。
でも自分としては依存することなく公正で公平な関係と距離感でいたいし、依存しているかいないかについては自覚的でありたい。無自覚な依存は自分自身を損なったり、知らず知らず周囲に迷惑をかけたりする。そう思うのだ。


さて、仕事の都合でちょっと遅めの昼食となったこの日は天下一品神楽坂店にてチャーハンランチを。あ、ついでに生ビールもつけてしまおう。
くどいようだが“ラーメン・ライス”といういかにも頭の悪そうな組合せは断固として認めないのだが、天下一品のこってりスープとチャーハンの組合せは最強。この奇跡のマリアージュを前にすると、いかにカロリーが凄まじくても私はあまりにも無力なのである。

ランチ・ビールと最強ランチ、実に幸福なランチ・タイムであった。


繰り返すが依存自体には善も悪もない。
依存は只の依存であり、それを自らが良しとするか否かだ。
しかし無自覚に依存するのではなく、依存している対象には自覚的でなければならない。


そういう訳でこの長文は平日の昼食時にしばしばビールを飲んでしまう自分自身の自己正当化の為にある。
・・・という訳だ。


おしまい。