激震

その揺れはあまりに激し過ぎた為に、かえってリアリティが無かった。

書類が舞い、棚が倒れゆく様を呆然と見つめ、祈る暇も恐怖を感じる余裕さえもなかった。
実際に結構長い時間揺れが続いたとは思うのだが、しかし現実的ににどれぐらいの時間だったのかはもはやわからない。時間という観念が失われてしまったのだ。

本当の恐怖を感じたのは2回目の大きな地震の方だった。

テレビをつけると、巨大な津波が街を飲み込んで行く様がリアル・タイムで映し出され、そんな光景は自分のささやかな想像力の範疇に到底収まるようなレベルの事象ではなく、恐怖と無力感と絶望感に襲われた。
木の葉のように漁船が舞う姿は、船釣りを趣味とする自分にとっては恐怖以上の恐怖だった。

会社は5時をもって終業とするとの判断を下したが、公共交通機関は完全にマヒしており、身動きが取れる状態ではなかった。

それでも会社に留まって事の成り行きを見つめるよりは、一刻も早く帰りたかった。

自宅までおよそ20kmの道のりをひたすら歩いて、途中ビール休憩とラーメン休憩を挟んで6時間かけて帰宅した。

会社の状況から推察するに、自宅も何らかのダメージを受けたことは免れないと覚悟していたが、拍子抜けするくらいに朝家を出た時のままであった。


このような天災に見舞われると、改めて自分は(というか我々)は、なんと脆弱な地面の上で、そしてなんと脆弱な構造物の中で生活しているのだろう、という厳然たる事実を改めて思い知らされる。
更に言えば自分のささやかな人生はより脆弱であり、生命さえも脆弱なのだ。

自分を自分たらしめているものを大切にし、さらに自分にとって大切な人やモノを今まで以上に大事にしようと誓った。