旅読書・・・「鳩の撃退法」佐藤正午

「こんな小説ありなのか?」

小説のキャッチならば相当に陳腐な言い回しだが(実際に帯にこんなキャッチの書かれた小説があったら関わりたくもない)、実体験として、実感として、身をもって、こんな感想を持つ小説と出会うことがある。

10年に一度、とまでは言わないけど、邂逅は5年に一度程の頻度もなかろう。

衝撃を受けるために本を読む訳ではないのだけれど、結果的に天地がひっくり返るような衝撃を小説を通じて得られることは、読書の醍醐味であることは間違いない。
これは何も小説に限ったことでなく、あらゆる表現に当てはまるが(「こんな映画ありなのか?」「こんな漫画ありなのか?」「こんな音楽ありなのか?」「こんな絵画ありなのか?」「こんな彫刻ありなのか?」「こんな建築ありなのか?」「こんな広告ありなのか?」「こんな釣りありなのか?」etc)。

芥川龍之介「歯車」と村上春樹「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」がティーンエイジャーの私にとっての「こんな小説ありなのか?」的な二大衝撃作であり、近年では我が人生ナンバーワン小説、白石一文「僕のなかの壊れていない部分」や、絲山秋子「不愉快な本の続編」、村上龍「半島を出よ」やドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」などに強烈な衝撃を受けた。

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で、佐藤正午「鳩の撃退法」である。

なんだ、これ?

私は伏線とか回収とかは脚本的な技術であり、小説の魅力とは何ら関係がないという立場を取っているが、この作品に関してはこの前提は全く当てはまらない。
緻密な伏線が効いている一方で、肝心要の謎は一切明らかにならない。

先が気になり止められない、しかし最後の頁を終えてもスッキリしない読後感、もやっとした澱のようなものが体内に残されたような感覚。
私がこの本を読み終えて最初にしたことは、上巻を読み返すことであった。

しかも文体に変なリズムがあったようで、次に読み始めた硬質な文体の本に上手く馴染めない。

たとえて言うならば、スネアだけが微妙に遅れるドラマーの8ビートを延々と聴いている内に癖になり、端正で的確な8ビートに違和感を覚えるような、そんな感覚だ。

そう言えばかなり以前、訳あってこの作家の「彼女について知ることのすべて」という小説を読んだことがあるのだが、面白くてスラスラ読んだ反面、主人公の人間的な情けなさが強烈に残る読後感の悪さに辟易して、以降手が伸びなかった。
失敗だったな。

W杯を時差無く見られる環境に、夜毎酒を飲みながら(ビールもワインも安くて旨い)テレビ観戦した今回のジョージア旅行、移動時間が長かったにも関わらず読んだ小説は「上と外」とこの「鳩の撃退法」だけである。

しかし、この「鳩の撃退法」は、私の2018年下半期以降の読書傾向に大きな影響を及ぼすことになりそうだ。