雨の日曜日・・・かづ屋(目黒)

かつて植木等は「サラリーマンは気楽な稼業ときたもんだ」と唄った。
逆説的な意味合いにおいて、部分的に首肯せざるを得ないなぁ、と、四半世紀以上に亘りサラリーマン稼業を続けている私は強く思うのである。
本質を見ずして会社ごっこに邁進している人間が偉くなったりもする。まともな部下にしてみれば悲劇だが、客観的に見たら喜劇である。
子供のままごとは金にならないが、大人の会社ごっこは金が稼げる上に権力を得るツールにもなりうるのですよ。

それと表裏一体のことだが、サラリーマン人生の悲惨な部分とは、選択権が少ないことによるものが多い。
役割、役職、作業の量と質などは勿論、原則的に人も選べない。
時に、いや、運が悪ければ常にアスペルガー自己愛性人格障害とも向き合わねばならない。
これは非常に厄介で、カウンセリング技術を身に付けることによりそれらの症状/病状/障害を先ずは言語化し、対象化させて対処するか、もしくは自らが麻痺して真剣に向き合わないことで対処するしかない、非常に由々しき問題である。こういう輩との対応を一歩間違えてしまうと、こちらが壊されてしまう。
そして最大の問題点とは、危機や問題を認識する為にも能力が必要であるということに尽きる。そこに危機が、ここに問題がありますよ、といくら説明しても、見えない人には決して見えないのだ。

確か村上龍の小説の中の言葉だったと思うが、「変化の無い世界では保守的であることが最も効率的になってしまう」、とあった(ような気がする)。
正鵠を射た言葉ではないか。
保守化することは、思考停止にも繋がるのである。

かつてモリッシーは「life is a pigsty(人生は豚小屋)」と唄った。これもまた植木等と同様に、ある意味では真理であろう。
悪臭と閉塞感。
思考停止と家畜化。
時に人生、ことにサラリーマン人生とは確かに豚小屋的な一面がある。

さて、豪雨の日曜日の夜に安物のビニール傘をさして仕事へ向かう私の姿も、悲劇的であり喜劇でもある。

現場に行く前に腹拵えをしようと、乗換駅の目黒でラーメン屋を探し、ヒットしたかづ屋へ。

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キリンラガー中瓶が702円もする。
これも喜劇である。

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ワンタン麺は1090円もする。
高くはあるが、ビールの価格に比べれば悲劇度も喜劇度も低い。

古き良き支那ソバ、老人の感傷を身に付けつつある私には、何となく正しい味のように思える。
これもまた思考停止の一側面か?

雨は激しさを増している。
濡れながら歩く。
悲劇と喜劇と哀愁を背負い、歩く。