旅と読書とバイブルと

40を過ぎてからバックパッカーと化したワタクシ、大江健三郎的に言えば「遅れてきた中年」といったところだ。

旅好きな会社のパイセンが崇めているバックパッカーのバイブルとやらを、年末年始の台湾旅行に持っていった。
なにしろいくら遅れてきたと言えども、私もバックパッカーの端くれなのだ。

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それがこちら、沢木耕太郎著「深夜特急」である。

薄い文庫の全6巻、1日1冊ペースという訳でもないのだが、5泊6日の行程の中、行きの飛行機で読み始め、帰りのスカイライナーで読み終えた。

時代も違えば年齢も違う、遅れてきた中年には遅すぎる読書体験だったなぁ、というのが正直な感想である。

高野秀行角幡唯介を知ってしまった後というのも分が悪い。

しかし全く何も感じなかったのかと言えば、決してそんなことはない。
直接的な影響で言えばポルトガルを旅してみたくなったし、タイを鉄道で移動している最中、蛍を詠んだ漢詩を読んでる時に窓の外を見ると無数の蛍が舞っていて不思議な符合に感じ入っているシーンでは深く共感した。

たまに「本に選ばれる」「本に呼ばれる」という感覚に陥る読書体験がある。
その感覚をもたらすのは、この手の不思議な符合によるものが殆どだ。

たとえば。
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先のタイ旅行で読んでいた花村萬月「王国記」、この羽田に到着したシーンを私は羽田に向かうタイ航空の中で読んでいた。

さらに。
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同じ「王国記」にハーメルンの笛吹き男が唐突に出てきてギクリとした。
「王国記」を読み終えたら読もうと思って私が鞄に忍ばせていた小説はネビル・シュート著「パイドパイパー」なのである。
言うまでもなくパイドパイパーとはハーメルンの笛吹き男の英題だ。

深夜特急に不思議な符合は訪れなかったけど、旅における読書のある種の感覚は共有できたのである。

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少し話しは逸れるが、同じ王国記の「これから先の人生、努力だけはしたくない。努力とは敗者の免罪符だ。」という下りはハッとした。
こういった読書体験とは私にとって覚醒剤なのだ。
それは違法な薬物という意味ではなく、私の麻痺していた部分を覚醒させるという意味合いにおいてである。

やはり旅はいいものだし、読書も、特に旅の最中の読書もいいものだ。

私は自身の深夜特急に乗っているので最早バイブルなど必要としないが(という青臭い表現をしたくなる時点でそれなりに影響を受けているのかもw?)、覚醒剤的な本と旅はこれからも求め続けるだろう。