山本有三は「路傍の石」を書き、高橋和巳は「我が心は石にあらず」を書いた。

自虐的シニカリズムとルサンチマン的反逆。
タイトルは真逆だが、いずれの小説も「個人」と「集団」、あるいは「個人」と「社会」の軋轢やら矛盾やらから生じる怒り、齟齬、虚無感等を描くことを目的とした作品であると考える。

このように俯瞰してみれば、相対する概念というのは実は根本においては大差がないのではないかという気がしてくる。

極右と極左全体主義的なものとして捉えれば紙一重だと言えなくもないし、イデオロギーの対立や宗教対立も根本はそれぞれの立場から目指す世界平和と心の安寧に過ぎない。

知性とは相反する概念を合理的に解決出来る視野の広さと、清濁併せ呑む度量の深さをもつことだ。

そういう意味ではルネッサンスの発明の一つである「複式簿記」とは、企業活動における重要さもさることながら人間の根本を翻訳することすら可能な究極の哲学と捉えることも可能だ。

借方と貸方は常に釣り合っている。
善と悪、賢と愚、光と闇、好きと嫌い、愛と憎しみ、etc。
ポジティブとネガティブに二極分化されそうなこれらの対義語は、同じ概念の異なる側面であると言えるのではないか?

とにかく私は深く怒っている。
それは虚無感と無力感を振り払う為の前向きな推進力である。

何を言いたいか忘れてきた。

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バリ島ウブドにて滞在していたホテルから街中へ向かう途中に並んでいた路傍の石、よくみれば石にあらず地蔵の大群だと滞在4日目にやっと気づきました。

というお話。

バリ島滞在は私にとってとても意義のあるものだったようで、いまだに心がバリから戻ってこれないのだ。