PANIC/THE SMITHS

THE SMITHSが1986年に発表した「PANIC」という曲がある。

これは「あちこちの街でパニックが起こっているのにDJは無意味な曲を流してる。ディスコを焼き払え、DJを絞首刑にせよ。」という内容の物騒と言うか、無茶苦茶な曲である。

しかし過激な歌詞と反するかのように曲調はソフトでポップあり、Morrisseyの声はあくまで淡々としており、最後の「DJを絞殺せよ!」のリフレインはMorrisseyと一緒に子供の大合唱で歌われ楽しげな雰囲気すら醸し出している。

初めてこの曲に込められたメッセージを理解した時、というかTHE SMITHSというバンドとの出会い自体が、「こういった種類の怒りの表現方法や、攻撃性もアリなのか!」と随分驚かされ、衝撃的だった。

一説に拠るとこの曲、ラジオでチェルノブイリ原発事故のニュース速報が入った後に、DJがWham!の曲をかけたことにMorrisseyが怒り狂った事がきっかけとなって生まれたらしい。
原発事故のニュースの後にWham!をかけることがどれほど不謹慎な事なのか判断がつきかねるものの(決して推奨される事ではないとは思うけど・・・)、PANICの歌詞の中に「奴らがいつもかける曲は自分の人生にとって何の意味のない」というような表現が出てくることから、単にMorrisseyWham!のようなお気楽なポップスを嫌いなだけなのではなかろうか?と思えなくもない。

しかしこの曲は極く個人的な怒りをより普遍性を帯びた次元へと昇化させる事に成功しており、今ではTHE SMITHSの曲の中でも人気が高いようだし、“名曲”と呼んで差し支えあるまい。これはある種の“優れた作品”の成り立ち方の一つと言えるのではないだろうか?
最近の例としては全身グッチまみれの御婦人と飲み屋で揉めた事をモチーフにしたRadioheadの「Paranoid Android」(全然最近じゃないな…)がこのパターンに当て嵌まると思うし、文学作品にもこのパターンが当て嵌まるものが数多くあるのではないかと思う。


未曾有の大災害に大事故、経済の復興や人々の心が癒えるまでどのくらいかかるのか見当もつかないし、需要量に応じた電力供給が可能になるまでどのくらいかかるのか分からない。
今は自分に出来るだけのことをやり、しっかり前を向いて生きていくだけである。

そんな折に、某自治体の某首長は(真意は別にあったとは言え)この災害を「天罰」と表現した。
そしてプロ野球セントラルリーグは開幕を、そしてナイターを強行しようとしている。

これをどう理解すればいいのだろうか?

こんな状況を目の当たりにしたら、恐らくMorrisseyはとんでもない名曲を生み出すに違いない、とアイロニカルに言いたくもなる。

こんな時だからつまらぬ事に腹を立てたり、誰かの揚げ足を取ったり、安易に批判したりということは慎むべきだし、助け合いの精神こそが最も大切だとは思う。

しかしどんな時でも“正しく怒る”という感情を忘れてはいけないのではないかと、ふと思った。
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