鱒を釣ること

先日、と言っても1~2ヶ月前の事だが、暇潰しに本屋をうろうろしていたら新潮文庫からリチャード・ブローティガンの「アメリカの鱒釣り」が発売されているのを見つけた。文庫化されていたなんて全く知らなかった。巻末を見ると平成十七年八月一日発行、平成十九年八月五日二刷とある。なんと二年以上前に発売されている上に、あまり売れていないようだ。

開高健の作品のような釣人のバイブルには決してなり得ないであろう、このいささか風変わりな(いや、‘いささか’なんて生易しいものじゃないな)小説と出会ったのは二十歳前後の頃だったと記憶しているからかれこれ20年近く前だ。友人との待ち合わせ時間よりかなり早く着いてしまい、暇潰しに入った六本木の青山ブックセンターで見つけたのだ。余談だがこの日同店にて村上春樹の「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」のサイン本が売られていた。天動説から地動説へドラスティックに価値観の変換を強いられたかのようなとんでもない衝撃を受けたこの作品は当時俺にとって生涯ナンバーワンの小説(今でもそうかもしれない)であり、非常に欲しかったのだが、貧乏学生にとって高価なハードカバーをもう一冊購入するなんてかなり勇気の要る行為だった訳で、手にとったり戻したりと数分に亘り悶絶した結果、見送ったのだった。思い返せば本当に悔やまれる。だってその頃の俺はろくに学校にも行かず、パチスロばかりやっていた事を思えば、本代を惜しむことなんてなかったのだ!

当時「アメリカの鱒釣り」を読んで、クールでシュールで斬新で今まで読んだどの小説とも異なっているなと思った。しかし俺にはいささか斬新過ぎて、以降読み返す事はなかったのだ。
20年近い時を経て再び読む。今読んでもやはり斬新だ。そして何かしら心の奥にツーンとしみる何かがある。この感情は何だろう?と思っていたら、柴田元幸氏の解説にある「敗残者たちに対するブローティガンの優しい視線」というフレーズを読んで納得した。
この小説を初めて読んだ大学生の頃は、先にも述べたがろくに学校にも行かずバイトとギャンブルに明け暮れ、趣味もなく目的もなく将来の希望もなく何の努力もせず、毎晩大量の酒を飲みながら割と自堕落な生活を送っていた。どちらかと言えば「ブローティガンに優しい視線を注がれる」側の人間だったのかも知れない。しかしその頃は若かったので、‘そのうちなんとかなるだろう’という根拠のない自信というか楽観があった。自分の可能性を過大に評価していたのだ。だからブローティガンのそういう視線に全く気が付かなかったのだと思う。
一方三十代も終盤を迎えた今、少ないながらも自分の労働の対価として得た賃金で生計をたて、あと30年支払いが残っているものの小さな家も得た。中古だけど車だってあるし、スタジオで下手なパンクを掻き鳴らすだけにしてはオーバースペックとも言えるベースだって持っている。中間管理職の悲哀のようなものは若干あるがそれは別問題で、物質的には典型的中産階級的に満たされており、はたから見たら‘敗残者’とは呼べないだろう。要するに今サンフランシスコの公園でブローティガンとばったり出会ったとしても、俺は‘優しい視線を注がれる’対象とは恐らくなり得ないであろうということだ。
それでも、と俺は思う。もう取り返しがつかない事を、俺は俺がなりたいものには恐らくなり得ないであろう事をはっきりと自覚している。敗残者ではないかも知れないが、かと言って勝者にもなれない。極めて限定的な世界で相対的な幸福を追い求めているだけだ。
そういう閉塞感にこの小説は、ブローティガンの視線は実に上手い具合にフィットしたのだと思う。
年を重ねていくことは、どちらかと言えば心楽しいことではないが、少なくとも「アメリカの鱒釣り」という小説を味わう為にはプラスに作用したと言える。

なにより今俺は鱒を釣っている。そして鱒釣りをテーマに(ブローティガンとは較べるべくもない)駄文を書いている。何となく因縁めいたものというか、この小説との不思議な縁を感じないでもないではないか。

やはりいつの日かアメリカで鱒を釣りたいなと改めて思う。しかしそれは「アメリカの鱒釣り」的鱒釣りでなければならないのだろうという気がする。
よくわからないけど。