無価値の創造…1/20FISH ON!王禅寺

ブログを始めてからPCに向かう時間が増え、テレビを見る時間が減った。
受身か創造かという究極の二者択一的に言えば駄文を書き散らすことも創造であり、より生産的な生き方になったと言えなくもない。

ブログを始めた理由というかきっかけは二つある。
即ち知人の勧めと記録の保存の為だ。

昨年の初釣行時に思い立ち、エクセル・シートに釣りの記録簿を付け始めた。項目は「日付、実釣時間、行き先、釣った魚の数、魚種、ヒット・ルアー」の6点。自分なりにデータを蓄積する事によって釣果アップを目指そうと思ったのがそもそもの始まりだったのだが、その記録を後日読み返す際に釣行時の記憶が蘇り、反芻して楽しめる事を知った。しかし記録の量が増えるに従い記憶が混濁するようになってきて、徐々に記録と記憶が結びつかないようになってきてしまった。

一方同じ頃、自らも主に趣味と価値観の吐露の場としてのブログを運営していた会社の後輩(仮にサマー)が、何故かしきりに俺にブログを始めるよう勧めてきた。Web上に自分の日記を公開するという行為とその意味が全く理解できなかった俺は軽く聞き流していたのだが、彼は会社の俺のメールに「ブログの始め方マニュアル」なるファイルまで送りつけてくる始末。そんなに俺の文章を読みたいのか?そんなに俺の日常を暴きたいのか?何でですか?どうしてですか?
しかしそのマニュアルを読むと、ブログは“非公開”や“許可した人のみ閲覧可能”といったフィルターをかける事が可能であることを知った。
エクセルの“釣り記録簿”に限界を感じ始めていた俺は、閉じた環境を前提として自分自身の為にブログを立ち上げてもいいかもしれないと思うようになる。
調教?

そんな訳で始めたブログ、当初の思惑とは異なり今だ非公開にはしていない。
何故か?
それは俺様の生き様(韻)を世間に知らしめる為!ということでは全くなく、“誰も見ないだろうが、見ようと思えば誰でも見ることができる”という微妙な環境に文章を晒すことで、ある程度“公正さ”を求められることが文章にプラスに作用していると思えるようになったからだ。
多分閉じた環境で感情の赴くまま文章を書き殴っていたら、もっとネガティブな内容が増えるように思う。そうすると自分で読み返した時に楽しめないだろう。

更に予期せぬ副産物。
文章を書くと、自分が漠然と感じたり考えていたりすることが系統的に捉えられることがある。
自分が書いた駄文を読み、思わぬ発見があってりして興味深いことこの上ない。

「文章をかくという作業は、とりもなおさず自分と自分をとりまく事物との距離を確認することである。必要なものは感性ではなく、ものさしだ。」
とは村上春樹のデビュー作「風の歌を聴け」からの引用だが、今更ながらこの文章って本当に凄いなと思う。

さて、本題。
前日のすそのでの苦い思いを紛らわそうと、買い物の合間にチョロッと王禅寺へ。
軽く10匹位釣って帰ろうと思ったのだが、そんな簡単にいくはずもない。
でもこの日大量放流されたという40センチ・クラスのこんなイワナを2匹釣り上げ思わぬ強い引きを楽しめたので、まあ良しとしよう。
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【釣果】
15:00~17:40
9匹(ニジマス7匹、イワナ2匹)


【タックル】
ロッド:TAPER&SHAPE GAAS-66XULT
リール:TWINPOWER 1000PGS
ライン:YGK NITLON GLEN 3lb


【ヒット・ルアー】
NOA2.6(ブラオレ)、NOA1.8(青銀)、鱒玄人2.9(勝利ブラウン)、鱒玄人2.0(九官鳥)


【本日の総括】
そういえばこの日も放流時の赤金、夕暮れ時の黒、暗くなってからのグローという定番の攻め方が不発。多くの人が同じような攻め方を続ければ魚がスレてしまうのは当然としても、初めてフィールドに放たれたフレッシュな魚にまで効かないというのは「?」という感じだ。
魚も進化してDNAにルアー情報が刷り込まれたりするのだろうか?