「Y」佐藤正午

いやはや、1998年といえば、私は今の会社に転職して地方都市担当の営業マンとして毎月出張していた頃じゃないか。
出張のお供には必ず文庫本を忍ばせていたわけで、と言うことは毎月書店にも足しげく通っていたはずだ。
それなのに、この年に出版されたこんな凄い小説を、何故に私は見落としていたのか。
俺の目は節穴か!?
いや、間違いなく節穴だろう。

しかし同時にこうも思う。
当時読んでもこんなに感動しなかったかもしれない、と。

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「彼女について知ることのすべて」「鳩の撃退法」「5」「ジャンプ」「身の上話」と読んできたことで、この作家の小説世界を受け入れる土壌が醸成されていたこと、そしていつもほどには作中の登場人物にイライラさせられることもなく、私は冒頭から物語に夢中になった。

映画音楽の巨匠、ミシェル・ルグランの訃報が伝えられた日に新潟行きの新幹線の中で読み始め、翌日帰路の新幹線を降りて乗り換えた在来線の中で読了した。
ミシェル・ルグランは直接登場しないけど、ヌーベルバーグのヨーロッパ映画が度々出てくるこの作品に、なんとなく因縁というか象徴めいたというか、何かしら感じるものが無いでもなかった。

謎解きのような展開はミステリー的とも言えるし、時空を超える設定はSF的とも言える。
ミステリーとSFを基本的に一切読まない私がそれにも関わらず一気に引き込まれたのは、それらを超えて圧倒的に文学的だったからだ。

読了した満員電車の中で私は不意に落涙した。
正体不明の感動に圧倒されていた。
しかし、この感情は感動と呼んでいいものなのか確信はなかった。

無理矢理言語化すれば、それは喪失感ではなかったか?
既に多くのものを失った私のスカスカな心の琴線に、この物語が触れた、いや、シンクロして揺さぶられたと言うべきか。
感じて動かされたなら感動でいいのだろう。

優劣ということでなく、大切という意味合いにおいて、これが今のところの私の佐藤正午ベストだ。
そして私にとって大事なのか否か半信半疑だったこの作家を、100%信じることにした。

未読の本も古本屋ではなく書店で購入しよう。
そうしよう。