「餃子の王将」という名のノスタルジー

まったく、義務感で更新するブログに一体何の意味があるというのだろう?
と思わないでもない。

それでも何らかの制約やルールがなければ、飽きっぽい自分にはこんな面倒な作業は決して続けることなど出来まい。書くことの理由や書いた内容はどうあれ、とにかく“続けること”にこそ意義がある。
何事につけ“身につける”までに人並み以上の時間が掛かる性質の俺は、“継続は力なり”とか“石の上にも三年”という考え方が極めて健全であるように思えて好きなのだ。
そして面倒な過程を経て身につけた物事は、人並み以上に出来るようになるものと信じている。

釣行回数が激減した為にネタも比例して激減しているが、「月間10記事」と「書き溜めはしない」と決めたささやかな自分内ブログ・ルールを遵守する為に無意味な文章を書き続けることにする。

何も無いところから何かを捻り出す不毛な作業を続けてみれば、或いは予想だにしなかった何かが生まれるかもしれない。
勿論結果的には只の徒労に終わるかもしれない。
いずれにせよ、続けてみないことには何もわからないのだ。




「雨トーク」で取り上げられた影響で、暫くの間「餃子の王将」各店ではラーメン二郎のような長い行列が出来ていた。
餃子の王将」はそこそこに安くてそこそこに旨い。
しかし決して並んでまで行くような店ではないと思っているので、その一時の狂想曲を俯瞰こそすれ加わる事はなかった。



大雨強風で釣りに行くことの叶わなかったその日、本当はラーメン大蒲田店でメシを食おうと思って出掛けたのだが、店に着くと生憎と休憩中であった。
あれ?この店最近では通し営業になったんじゃなかったっけ?
しかし厳然たる事実として店の扉は閉じられており、かつ再開まではまだ40分もある。元来暇なのだから40分ぐらい待っても人生的には何の問題もなかったのだが、そこまでの気の長さを持ち合わせていなかったので、他の店を求めて近所を散策することにした。

すると一時の加熱状態が収束し、店内には十分な空席のある「餃子の王将」が目についたという訳だ。


注文したのはチャーハン定食と生ビール。
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フレンチ・レストランではワインが欠かせないように、もつ焼きを食べる時にはホッピーが欠かせないように、埼玉屋に行ったらレモンサワーが欠かせないように、餃子を食べる時にはいつだってビールが欠かせない。
しかし、店内を見回しても俺の他にビールを飲んでいる客の姿は皆無であった。

何故人々は餃子を食べる時にビールを飲まないのか?

全く理解が出来なかったが、多数決が民主主義の基本であると仮定したら、おかしいのは恐らく俺の方なのだろう。

そういえば王将で食事をするのは何時以来だろう?

最後に王将に来たのがいつであったのか、全く思い出せなかった。
しかし、20年近く前にはしょっちゅう王将に通っていた時期がある。

それは大学を卒業して某金融機関で働き始めた頃のことだ。

会社にも社会にも仕事にも金融システムにも全く馴染む事が出来ずに暗澹たる日々を送っていたあの頃、仕事を終えて会社近くの王将で食事をしてから昭和30年代に建てられた住んでるだけで気が滅入る独身寮へと帰っていたものだ。

時代は正にバブルの崩壊。
キツイことの連続だった。

あの頃受けた心の傷は今では勿論癒えてはいるけど傷痕は修復不可能な程クッキリと残っており、その傷痕を眺めて当時を苦々しく思い出すことがたまにある。
過ぎてしまえば皆良い思い出、とは決して言えない暗黒の日々。今思い返しても楽しい記憶は一つもない。

餃子の王将」はそんなノスタルジーとは対極の、思い出したくもないのに決して忘れることの出来ない苦々しい時代の記憶と密接に結び付いているのだ。個人的に。